学会の歴史
History
わが国の重症心身障害児者支援は、医療に組み入れられることで他国に先んじて整備されました。これは、小林提樹先生を始めとする先駆者の方々と当事者、その保護者の方々のたゆまぬ努力の成果です。年表にその経緯が示されています。
1974年、本学会が小林堤樹先生を核にして設立されました。現在わが国は平和と繁栄の中にありますが、この分野の創立と発展に尽力した方々は皆、戦争の苦難を経験した方々でした。小林先生は医療の立場で尽力されましたが、もうひとかた、糸賀一雄先生は「社会福祉の父」と呼ばれ、福祉の立場で指導的な役割を果たされました。先生の言葉にあるように、「この子らを世の光に」しようと重度の障害がある子どもたちを慈しんだ先駆者の方々もまた、光を放って人々を惹きつけたことが、今日の本学会につながっていると思います。水上勉氏の「拝啓池田総理大臣殿」に対する返信で、当時の官房長官が、障害児支援への予算増額に触れたあと、「むしろ、それ以上に必要なことは(中略)重い心身障害の子供たちに対する治療と教育について専門の知識をもち、この困難な仕事にたえる精神力と、両親にもひとしい愛情とをそなえた人材をえることであります。」と述べています。当事者に想いを寄せながら、参集された得がたい方々を支援することが本学会の務めと思います。 (将来検討委員会委員長 松葉佐 正)
1961年
島田療育園が開設された。(初代園長に小林提樹)
1963年
「重症心身障害児の療育について」の厚生事務次官通達、重症心身障害児が定義された。
びわこ学園が開設された。(初代園長に岡崎英彦)
作家の水上勉は、脊椎破裂の子を育てることを通して全国の重度障害児と養育者の窮状を知り、6月、そのことを総合雑誌「中央公論」上で「拝啓池田総理大臣殿」と題して訴えた。この一文は大きな反響を呼び、重症心身障害児問題が世に知られる契機となった。
小児麻痺が大流行し、俳優の伴淳三郎、森繁久彌が小児麻痺患者支援のための寄付を発案し、その後多くの芸能人の賛同を得てチャリティーショーが行われた。
びわこ学園が開設された。(初代園長に岡崎英彦)
作家の水上勉は、脊椎破裂の子を育てることを通して全国の重度障害児と養育者の窮状を知り、6月、そのことを総合雑誌「中央公論」上で「拝啓池田総理大臣殿」と題して訴えた。この一文は大きな反響を呼び、重症心身障害児問題が世に知られる契機となった。
小児麻痺が大流行し、俳優の伴淳三郎、森繁久彌が小児麻痺患者支援のための寄付を発案し、その後多くの芸能人の賛同を得てチャリティーショーが行われた。
1964年
秋津療育園が開設された。(初代理事長に草野熊吉)
1965年
多くの芸能人が賛同してチャリティーショーを行って募金した。募金箱が「あゆみの箱」と命名され、多くのチャリティーショーで使われた。社団法人「あゆみの会」から全国重症心身障害児センター(東京)の建設資金が寄付された。
1966年
国立療養所(480床)、整肢療護園(40床)に重症心身障害児病棟が設置された。
1967年
重症心身障害児施設(国立療養所の委託病床含む)が法制化(児童福祉法改正)され、重症心身障害児病棟が80か所の国立療養所(当時の名称)へ拡大された。
8月、児童福祉法43条の4に、重症心身障害児が「重度の精神薄弱(当時の用語、現在では知的障害と表現)と重度の肢体不自由を重複する児童」と定義された。
8月、児童福祉法43条の4に、重症心身障害児が「重度の精神薄弱(当時の用語、現在では知的障害と表現)と重度の肢体不自由を重複する児童」と定義された。
1968年
全国に公法人立重症心身障害児施設が開設された。
1974年
小林提樹の「自分が今までやってきたことを学問として発展させ、また後輩の人々に、自分の今までの経験を伝えていく研究会を作りたい。」という思いを受け、日本医師会会長 武見太郎の提案により、重症心身障害児研究会発足の準備が開始された。
1975年
小林提樹理事長 1975年(昭和50年)10月~1986年(昭和61年)9月
3月、発起人会が開かれ、重症心身障害研究会が正式に発足した。
10月、小林提樹を会長に、国立東京第二病院の講堂で、第1回重症心身障害研究会が開催された。
3月、発起人会が開かれ、重症心身障害研究会が正式に発足した。
10月、小林提樹を会長に、国立東京第二病院の講堂で、第1回重症心身障害研究会が開催された。
1986年
大谷藤郎理事長 1986年(昭和61年)10月~1989年(平成元年)9月
障害を持つ人も健常な人も互いを認め合って暮らせる『共に生きる社会』の実現を目指した。
障害を持つ人も健常な人も互いを認め合って暮らせる『共に生きる社会』の実現を目指した。
1989年
有馬正高理事長 1989年(平成元年)10月~2018年(平成30年)9月
首都圏以外の人が参加しやすいよう、開催地を全国に拡大した。
首都圏以外の人が参加しやすいよう、開催地を全国に拡大した。
1993年
日本学術会議登録を認められ、年1回開催する「研究大会」を「研究会学術集会」に変更した。
1996年
学会の名称を重症心身障害研究会から日本重症心身障害学会に変更した。当初は医師を主体とした研究団体であったが、時代の要請とともに看護師、保育士、児童指導員、介護福祉士、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、心理士、教員、ご家族などの会員が増加し、研究内容も多岐にわたるようになった。
重症心身障害児施設入所児者に対する気道ケアや緊張増強への対応が増加したことを背景に、鈴木康之らが「超重症児スコア」を提唱した。このスコアは、その後診療報酬加算に生かされた。
重症心身障害児施設入所児者に対する気道ケアや緊張増強への対応が増加したことを背景に、鈴木康之らが「超重症児スコア」を提唱した。このスコアは、その後診療報酬加算に生かされた。
2006年
障害者自立支援法が施行され、それまでの3障害(「身体」・「知的」・「精神」)が一元化された。合わせて、それまで10種以上あった障害児施設・事業が、「障害児入所支援」と「障害児通所支援」に2分され、入所支援には福祉型障害児入所支援と医療型障害児入所施設が、通所支援には児童発達支援・医療型児童発達支援・放課後等デイサービス・保育所等訪問支援がそれぞれ含まれることになった。重症心身障害児・者は18歳以上では成人として処遇されることになった。重症心身障害児施設は、医療型障害児入所施設と療養介護施設の運用に分割された。
2012年
福祉職員が喀痰吸引・経管栄養を行える制度が制定された。
学会ウェブサイトが公開された。
学会ウェブサイトが公開された。
2014年
国連障害者権利条約(2006年12月国連総会採択、2008年5月発効)が批准され、日本で効力が発生した。
2018年
伊東宗行理事長 2018年(平成30年)10月~2022年(令和4年)12月
次世代に通用する学会組織作りのため、将来構想委員会設置など組織改革を行い、新しい規則細則が制定された。
次世代に通用する学会組織作りのため、将来構想委員会設置など組織改革を行い、新しい規則細則が制定された。
2020年
コロナ禍のため、学術集会開催が見送られ、代替としてウェブセミナーが開催された。
2021年
医療的ケア児支援法が制定された。
コロナ禍のため、学術集会がオンラインで開催された。(第46回、後藤一也会長)
コロナ禍のため、学術集会がオンラインで開催された。(第46回、後藤一也会長)
2022年
口分田政夫理事長 2022年(令和4年)12月~
学術集会の現地開催が再開された。(第47回、木実谷哲史会長)
ニーズの高い課題に対して複数の委員会を設置し、会員参加型での学会活動の推進を目指している。
学術集会の現地開催が再開された。(第47回、木実谷哲史会長)
ニーズの高い課題に対して複数の委員会を設置し、会員参加型での学会活動の推進を目指している。